シルクロード紀行<神津>

DSC_4948 aa.jpg北京上空の荒天で離陸が遅れ、シルクロードの旅から夜中の2時に帰りました。

都合12日間の旅行でした。24日成田を15時離陸し、乗り換えの北京上空が悪天候で急遽青島空港に一旦退避、都合1時間半程遅れ、日付が変わってウルムチ着となりました。北京は鬼門です。一夜明ければ小雨上がりの曇天で肌寒く、シルクロード周遊の旅は想定外のスタートとなりました。出発に当たってはJTBの説明書に従い、バッグに沙漠の暑さを意識して薄いシャツばかり詰め込みましたが、ウルムチの朝は息が白く見えるほどの冷え込みでした。が、現地の人には大歓迎の雨だそうで。10日間お世話頂くガイドはウルムチ出身で西安の大学卒業の40過ぎの色白、まあ美形に入る小柄な女性でなかなか流暢に日本語を駆使します。漢族出身と自己紹介。他民族の新疆や中国ではこうした紹介の仕方が当たり前なのかと受け止めました。旅程最後の西安のガイドさんは未婚の活発な若い女性でしたが、新疆は羊肉の匂いがして嫌いだと鼻を抓む仕草を見せ、顔をしかめて見せました。聞く側にとっては複雑な心持でした。ウルムチのホテルは5つ星で、西安を除くその後のホテルに比べれば豪華で安心して使える施設、応対でしたが、職員は無愛想な迷彩服着用。説明では中国(特にホテルは万が一の際の防衛・避難拠点で、政府の指示で毎年一定期間軍事訓練を兼ねた勤務をするそうです。

面白かったのはトイレ。沙漠沿いの道には極く限られた場所にしかトイレは無く、穴は空きっぱなしで汚い。現地ガイドは終始青空トイレお勧めの方針。バスの左右に男女が別れ、砂漠に少し入りのびのび用をたしました。辺りには随所に一物が残されて居る所もありましたが、乾ききっているので、臭いも無く踏まなければ被害はありません。

毎日朝昼晩中華料理風の油をたっぷり使った食事でどれも美味しいのですが、終わりの頃には些か腹に応えました。従って毎食、中国の炭酸水に似た美味くも無いビールが絶対?に欠かせません。レストランの生ぬるいビンビールが30元(570円)現地では約4~5倍すれば庶民実勢価格でしょうか。大変に高いが止むを得ない。イスラム世界では酒はご法度で、毎晩通りの四辻に何することも無くたむろする、黒っぽい長袖衣装の男たちは香辛料たっぷりの羊肉シシカバブー(串刺し焼肉)を頬張ってもそれだけで済ませます。が良くしたもので、漢族相手の酒の売店もあり温い(五つ星を除き、殆どのホテル室、街中には冷蔵庫がありません)同じビールが5元(95円)で売っています。ホテル、現地ガイドのマージンの取りすぎを罵りながら、飲むたびに味にはがっかりする!

もう一つ不満を。敦厚では入園料を払った上、どの窟にも改めて拝観料がかかる。しかも窟の価値によって価格差があり、僕らの見た窟では最高額の220元(4000円余り、円安で1元19円)もあったが、中国の庶民にすれば15000円くらいに相当する!団体割引無し!すさまじいボリよう!単純に日中友好好(ハオ)とは言いたくないね。

トルファンに向かう沙漠で風力発電の風車郡に幾つも出会いました。約100基はあろうかと思われる群れが、まるで無造作に投げ出すように立って、しかも大方廻っています。これが転々と続きます。日本では考えられない建築の仕方で、しかも大規模です。日本では立地条件に乏しく安定した風の確保が困難で、しかも騒音や高周波、バードストライクなどで運転が満足に出来ない状態が続いています。高い購買価格に漸く支えられている状態ですが、流石に沙漠の国ではそんな心配は無いか。しかしこんな僻地では送電網に苦労するかと思いきやそうでもなさそうです。解放軍が居るし、人件費が安いからね。直ぐ傍を西安とウルムチを結ぶ高速鉄道(新幹線と同じ意味)工事が進行中で、2015年には運転開始とか。恐ろしいほどのスピードで工事が進められている。一昨年の上海近くの新幹線事故などガイドさんによればノープロブレムだそう。あちこちで解放軍のトラック部隊が旗を立て走っていました。50キロも走れば日本ではお眼に掛かれない、巨大な水泥(セメント)工場が建って先ずは道路、鉄道、電気ありきの意思が伝わってきます。砂漠を行けども行けども送電線が砂丘を昇り降りしながら、曇天の下果てしも無く続く姿が印象的でした。

感心したのはタクラマカン横断直線550キロの両側の道沿いに、切れる事無く黒い給水ホースが走っている光景でした。幾重にも防砂林を育てているのでした。径30ミリくらいのゴムホースが片側多いところで10本(少なくとも5本)延々と設置されていました。20~30キロ毎に地下から水を汲み上げ時間給水する小屋が建っており、女性が管理しています。道の掃除も請け負っている様子です。実はこの旅行で一番怖かったのは15年前に開通したこの横断道路を時速100キロで突っ走ることでした。写真集や紀行文には道沿いの防砂林など一言の紹介も無かったからです。スリップを恐れましたが、ノープロブレム。沙漠を代表する植物タマリスク(紅楊)の薄紅の細かい花が可憐です。ホースの光景は中国の開発への執念というか、強い意欲を感じました。インドと比較されることの多い中国です。一昨年北インドに友人数人と乗用車を雇って旅をしてきました。中流層の進出が言われているにも関らず、貧困の度合いの深刻さにカルチャーショックを受けて帰りました。最貧困地帯のビハール州は特にすさまじかった。小作は地主に収める畑の水代が払えず次々に土地を手放し流浪化していると説明されました。新疆でも極々僅かに物乞いを見ましたが、インド的貧困はありません。共産党の功罪の議論はあるでしょうが、農地解放だけはこの党の存在あってこそと考えます。

高校時代、スエンヘディンの「彷徨えるロブノ―ル」や川口慧海の紀行文を読み、井上靖の「敦煌」をはじめ西域物を読み漁りました。長じて会社設立の頃、深夜一人事務所で仕事をしながらNHKのシルクロードのテーマ曲(喜太郎の‘絲綢の道’)を聞きながら思い通りに進まない自らを慰めた日々。山仲間と何時かはタクラマカン砂漠沿いのシルクロードのオアシスを訪ねようと約束し、遂に友人とJTBのツアーに参加し夢を叶えました。タクラマカン砂漠は世界2位の広さを持ち日本列島がすっぽり入る面積です。新疆ウイグル自治区は実に日本の4倍の面積。東端のトルファン盆地は海抜マイナス130Mで年間降雨量は30ミリ、年間蒸発量は3000ミリの過酷な世界ですが、崑崙山脈から流れ出す雪解け水のオアシスは緑豊かなぶどうを実らせています。トルファンの干し葡萄として世界的に名を知られています。訪ねた日は38度の炎熱、空気はからっとして、汗はあっと言う間にひいていきます。河西回廊の沙漠の入り口には敦煌遺跡があり漢詩に詠われた陽関・玉門関を置き、西の端のカシュガルは隣国のパキスタンと国境を間近に接しています。国境まで30キロの標高3650MNOカラクリ湖畔から7000mを大きく超える崑崙山脈を望んできました。カシュガルの手前のヤルカンドの街中で、交通事故処理中の警官に友人がカメラを向けたところ(その少し前に街角の装甲車を見ていたので、僕は止め他方が良いと促したのですが)気づいた警察官らにあっと言う間に囲まれ、がんがん言われ挙句フィルムを抜き取られました。一瞬逮捕されるかと思いました。その後現地ガイドから改めて、軍人・警官・駅員などの撮影は避けることを要請されました。出発の1ヵ月半前にカシュガルの近くで警官3人が撃ち殺され、現地人2人も射殺される事件がありました。唯でさえ新疆ウイグル自治区は独立運動と急激な漢民族移住による軋轢が厳しくなっている土地で、外人とは接触させたくないとの神経が行渡っています。

旅行中クチャの町に横断幕で「釣魚島……」のスローガンを見ただけで、ホテルのテレビニュース(1日中ニュース放送のチャンネル)でも見ている限りでは、石破幹事長と安倍首相がそれぞれ1回ずつ現れたのみで、日本のニュースは映りませんでした。しかし街を夜ぶらつけばカメラを下げているせいか「日本人か?」と尋ねられ、ふるまいには常に気は使いました。現地ガイドや観光関係の人には(特に敦煌では)日本の観光客が去年より7~80%減った、もっと来て欲しいと訴えられました。西安の若い美人ガイドからも、日中は仲良くしよう、もっと観光に来て欲しいと訴えられましたが。

シルクロードの出発点 西安に戻り感じたことは、中国の広大さとそこに暮らす人々のエネルギーでした。30年前にNHKのシルクロードで見た街中の様子はすっかり様変わりし、昔ながらの土と日干し煉瓦の家は、農村でこそふんだんに見られますが、都市部では至る所で壊され高層住宅に切り替わっています。それでも町の少し裏側に入るとまだまだかっての暮らしが窺えます。曲がりくねった迷路のような小路が続き懐かしい感じが漂っています。夜は勿論、前の晩が遅くても早朝の散歩は欠かさず実行しましたが、当初の緊張も慣れるに従って、行きかわす人に笑顔と会釈を向ければ殆どが返って来て心が和らぎました。アーリア系の目鼻立ちのはっきりした子供の笑顔は素敵で随分カメラに収めました。遺跡のゴビ原を大勢の子供たちとかけっこした楽しさは忘れ難い。国境近くの奥地に至っても工事が打ち続く中国の経済発展を肌に感じた一面、過酷な自然環境のなかでも人はどうやってでも生きていけるものだと思ったことでした。インドでも感じたことですが、外から日本を見つめる心になりました

中国の天・革命の思想、中国共産党の意義、毛沢東の功罪、文化大革命の位置づけ、社会主義の根幹である筈の土地の公有制度(個人に認められている70年間の所有権の売買)の事実上の崩壊など参考書を片手にしての旅行でしたが、勉強になりました。
旅行中新しい年配の友人も得ました。東北大学経済学部同期の72歳の4人組みで、東京で60人ほどの歴史の勉強会を運営しています。誠に博学多識の楽しい人たちでした。毎月1回の勉強会の参加に誘われました。新しいお付き合いが始まります。

当会発足時からのメンバーで、活動日には様々な雑用を黙々とこなす事務方の長、辻田さん。
6年目を迎えるに当たって一筆、と原稿を寄せてくれたのでご紹介します。(編集部)

ぼんぼり山の会活動満五年を振り返って<辻田>

平成19年5月5日(土)23名の若人(?自称)がJR武蔵五日市駅裏に集合。みな何故か顔は晴れ晴れ。
これから新天地(?)で皆と一緒に雨の日も風の日もそして雪の日も思いを一つにして前を向いて活動できる喜びを体一杯に現わしていた。

当日の模様をホームページから一部抜粋した。

今日は「ぼんぼり山の会」発足後、新しいフィールドで活動を行う記念すべき第一回目の日。
幸い天気にも恵まれ上々の滑り出しとなった。この会は道具もマイ鋸・マイ鉈を基本に自前の道具を持参。ヘルメット・チェンソー・救急用品一式は会の仲間による寄付と、まさに手作りのスタートだ。

9時半にJR五日市駅に集合し仲間の車に分乗。黒茶屋の所から旧道(?)に入っておよそ10分で現地に到着。畑の間の細道を上り柚子畑とスギ林の境界付近が今回の活動拠点(集合地点)となる。柚子畑は猿の被害から守るためにネットが張られ弱い電流が流されている。この地域も高齢化が進み柚子畑の手入れもままならず、相談を受けた花咲村のメンバー達が3m位のところから上部を切断し、横に枝を出させるように手を入れたという。ましてやスギなどの人工林には手をいれられない…

本日の~1.JPG○活動を始めるにあたって、まずは尾根まで上り全容を把握することにし全員で尾根まで上る。尾根近くは急勾配となるが前のフィールドに比較すると勾配はゆるやかな感じ。

○午後からはボサ刈、倒木の片付け、枯れ木や曲がり木、欠頂木の伐採などの取り組み開始。仲間の皆さん達は馴れた手つきでどんどん作業を進めていく。中には柚子の木もあって、その鋭いトゲには要注意だ。たった3時間ほどの作業だったが終わってみればその成果が歴然として現れている。

○今日は早めに作業を終わらせ、山主さん、水道を使わせていただくお宅、駐車場をお借りするお宅を訪問しご挨拶をした。皆さんには快く受けていただき、物置に道具を置かせていただけることになった。本当に感謝です!! 今後とも、こうした良い関係を維持発展できるように心がけていきたい。


第二回目の活動日5月20日(日)からは、今はテラスと称する基地作りが始まった。

今日の最初の大仕事はSさんが解体して運んで来たいただき物のスチール製物置部材などを山主さんの許可をいただいた設置予定場所まで運び上げること。自分の体を運ぶだけでも息切れがする急坂を物置の部材を抱えて上るのは結構きつい。途中からは車道から中間地点まで運ぶ組と中間点から設置場所まで運ぶグループに分かれて運搬を行い2回~3回の往復でようやく完了。「今日の一日分の仕事をしたよ」といった声も上るほど。まずは一息ついて呼吸を整え、それから活動に入ることに。

設置場所が斜面とあって土台作りに一苦労。間伐材を打ち込み、その上に横木を渡して水平を出したところでお昼に。「土台ができれば完成したようなもの」というはずだったが、いざ組立が始まると「この部品はどこに使う?」「ここはどの部品で止める?」といった按配で額を寄せて思案するも中々進まない。他の人が解体した上、図面も無いから無理もない話なのだが。それでも何とかする凄い仲間達なのだ。


「活動初日に腕に自信のある23名も揃う団体は多分全国を見てもないだろう…」とはこの地を紹介してくれたS氏の独り言。
この23名の仲間はそれまでは別の場所で10数年活動し、ミツバチが巣別れするようにこの地に新しい住処を見つけた。だからスタート時には会としての道具類は何もなく、またファンドもなく一部有志の寄付金と融資で緊急に最低限のものをそろえるのが精一杯であった。Y氏とT氏のマイチェンソーだけが主なもので、マイヘル・マイ鋸・マイ鉈を皆が持ち寄った。それでも紹介者S氏の顔で国土緑推の緑の募金助成金25万円が一年後にいただけたのは本当にうれしかった。通常は活動実績を数年作らないといただけないようだ。

この地で活動の基礎を設けるのに地主のT氏の一方ならぬご尽力をいただいたことにも触れておかねばならない。
T氏は先祖代々この地に居を構え林業を稼業とする山主さん。現ご当主は一級建築士で地元町内会の会長兼ゆず組合会長でもある。T氏の地元での顔がないと今も活動を続けられたかわからない。
我々都会育ちの名もないボランティア団体が山に入って活動することは普通は難しい。山主さんにすれば自分の土地に他人が土足で入ることを快しとしないし、得体のしれない団体に勝手に活動されたら山がどうなるか、火でも出したらどうしてくれるんだ…と。私有地でもこうだし、公有地では入山はもっと厳しく許可は取れない。この23名のメンバーは常にT氏への感謝の思いを持ち続けている。

振り返れば懐かしい思い出が出てくるメンバーもいる。
主力となっていた数人の方とそれなりの理由で別れたことが思い出される。K氏、H氏、I氏それにS氏だ。そうだ、忘れてはいけないY嬢もいる。
K氏は事務方を一手に引き受け、かつ旧ホームページを立ち上げ新につながるまで約2年間担当してくれたが、H22年4月に志半ばにして病に勝てず帰らぬ人となった。一時は回復してH21年12月一泊忘年会に顔を出してくれた時は仲間が歓喜の声を上げたものだった。

H氏はいつもひょうひょうとしてテラス回り雑用・火起こし・炊事などをいやな顔一つせずやってくれた。タバコが何よりも好きな人だった。ある日忽然と顔を見せなくなりその後連絡も取れなくなった。今もどこかで活躍中であることを祈るばかりだ。

I氏は無口だが若手のホープでこの会の将来を背負ってくれる人材だったが、ちょっとした行き違いがあり無言で去って行った。残されたメンバーも彼との会話が少なく彼の思いを事前に十分くみ取ることができなかった。

最後にS氏、この会の初期段階のすべての面での指導者であった。この人がいなければ…と、いつまでも一番の恩人であり続けるだろう。今も近くで活躍していると風の便りで聞こえる。健康に気をつけてご活躍を祈ろう。

忘れてはいけないY嬢。彼女は常にエネルギッシュに且つ体に似合わない女性らしい気配りで活動周りを補佐してくれた。お父さんの反対を押し切って毎回欠かさず遠くから車で馳せ参じ、疲れた顔一つ見せない女丈夫だった。でも自分の居場所とはちょっと違うと思ったのか黙って去って行った。やはり近くで活躍していると風の便りに聞くが…。
まだ書かなければいけない人がいる。U奥様、M奥様。本当にお世話になりました。またいつか顔をお見せください。

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災害ボランティア報告(3)
東日本大震災の被災地ボランティアに行ってきました。<藤川>

震災後、募金や物資援助などしておらず、時期を見て必ず何か応援したいと思いつつ、被災者の顔が見える力添えができる機会を待っていました。募金や物資を送るのは、相手の顔が見えない。募金はどのように使われるのか分からない。体力と時間を費やすが、やはり、ボランティアに参加をするのが自分流の支援となりました。帰る早々、当会の会長・役員から「活動について報告せよ」と依頼があり、以下、報告します。

fujikawa.jpg参加した団体:RQ市民災害救援センター唐桑(RQ唐桑ボランティアセンター)
場所:宮城県気仙沼市唐桑町
期間:2011年8月21、22、23日
RQ市民災害救援センター http://www.rq-center.net/

<活動内容>
毎日のスケジュール
7:15 各ボランティアセンター(VC)での小ミーティング
8:05 全体ミーティング(隣のVCから応援部隊が合流)
作業へ移動。各作業班ごとに休息と昼食
15:00頃 作業終了
作業後に、作業班ごとまたは集まった人で車に便乗し近くのお風呂へ行く。
19:15 夜ミーティング
22:30 消灯

fujikawa 1.JPG小ミーティング(または夜ミーティング)で、初めて参加する人は自己紹介をする。今日で帰る人も一言挨拶。同じ場所に3日もいると誰でもベテランにされてしまう。朝は本日の活動場所について説明、作業内容、人数、班長など伝えられる。夜ミーティングでは、当日の活動報告、注意点、明日の活動内容、自分がどの班で作業をするか決定。その他当番決め(ごはん当番、さっちゃん当番-犬の散歩、道具当番)。スタッフがミーティングや作業の先導役を務め、参加者が役割当番で作業分担をする仕組みがうまく機能している。
けが人を出さないため作業はムリをしない、がボランティアの鉄則。従って、思っていたより肉体的に辛くない。1-2日目、瓦礫撤去作業。3日目、漁師さんのお手伝い。津波で被害を受けたカキ養殖の種、帆立貝の種付け作業を行った。

<震災後の地盤低下>
瓦礫の撤去作業は津波で被災した家を取り壊すための前作業となる。家の中から津波にのまれた家具、生活用品、衣類、壊れたガラス、家の一部などをごみとして処理できるように移動する。作業は午後3時ぐらいまでに終了する。地震で地盤が沈下、潮が満ちてくると、家に水が浸水し、作業にならない上、帰れなくなる。気仙沼では震災後74センチ、陸前高田では84センチの地盤沈下が発表されている。

fujikawa 2.JPG<出会った人々>
ボランティアに参加していた人々:大学生、(恐らく)学校の先生、サラリーマン(節電勤務スケジュール中)、高校生、仕事を辞めたばかりの元OL,定職につかないフリーター。定年退職者。ここでも時間に余裕のある人が多い。社会に直結しているサラリーマンや本当に時間のない主婦が参加したら、このボランティア活動はもっと社会に影響を与えるのにと思う。ボランティアに参加する人たちは、どこでも一風変わった個性の強い、面白い人が多い。
地元の人:鮪立地区の奥さん、作業依頼主のご主人、漁師の老夫婦、カキ養殖をしている漁師さん。→「もまれ牡蠣」の種付けを手伝いました。http://www.umaikaki.com/karakuwa/momarekaki.html

<ボランティア団体>
ぼんぼり山の会と同じボランティア活動という観点から見る。RQ唐桑VCは活動期間が未定の緊急活動部隊。一方、ぼんぼりは期間限定なしの活動。どちらも地域密着型という点では根本に同じ。地元の作業依頼を基本に毎日の活動を行っている。RQは毎日人が入れ替わる。急に休暇がとれたから参加したとか、隣の登米VCでこちらのウワサを聞き来てみたくなった、など多様な参加者を皆歓迎し、受け入れる点も同じ。こうした人々をとりまとめるスタッフがすばらしい。もちろんスタッフもボランティア。ボランティアの仕事ぶりは丁寧。効率性を追及するよりも依頼主が喜んでくれるような仕事をする、この点もぼんぼりと共通した。

例えば初日に行った瓦礫の撤去作業が例。浸水で土を被った家具や生活道具、壊れたガラスを家の中から運び出し家の中きれいにして、箒で掃除する。後で重機が入り家を壊してしまうので、掃除は意味がないかもしれない。しかし長年住んでいた住人(作業の依頼者)の心の痛みを思うとせめて壊される前にきれいにした家をみてもらいたい、だから皆で丁寧に掃除をする。

<感想>
唐桑のボランティア活動では他人を思いやる・もてなす・感謝するといった余裕ある暖かい心にたくさん出会った。それがここでの心地よい人間関係を作っていると思う。ボランティアの住居基地、海岸亭のご主人-店の2階をボランティアに提供し、水、台所、その他敷地も使わせてくれている。作業場近くの住人の方々-被災者であり大変な時に休憩の差し入れ、時にはお宅で休憩を取らせもらえ昼食も出してくれる、トイレを貸してくれたり、ごみや瓦礫置き場の指示など適切にくれる。毎日、20人以上のボランティアへ差し入れをする地元被災者の心に感服する。カキの養殖業をしている漁師さん-毎日変わるボランティアメンバーへ作業を丁寧に教えてくれ、船に乗せてくれ津波や火事の様子・フランスのカキ養殖業者から援助物資が来た話しを聞かせてくれる。こちらは、ボランティアをしているというより、視察旅行をしているかのようだ。漁師さん、津波で遅れた作業より、ボランティア参加者へ津波に対する理解を深めてもらい、将来へつながる人脈、人間関係作りをしている、すごい!とその奥深さに圧巻。せめてもの応援で、その夜は地元の漁業復興を願い、すし屋で夕食をとった。

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会員インタビュー第3弾
ぼんぼり茶人カトチャン真面目に語る


━━森林ボランティアを始めて何年になりますか? また、森林ボランティアのきっかけは?

  • そうですねぇ。もう10年位たちますかね。実家が京都の呉服屋で、こちらで呉服屋をやっているのですが、お客さんで親しくして頂いている方が森林ボランティアをやっているので、そんな関係から参加するようになりました。

━━ぼんぼりではどんな作業をされていますか?

  • 主に、ではなく専ら間伐・除伐・ボサ刈りばかりですね。

━━いつも拝見すると、上から下まで泥だらけですよね。汚れ方に関してはこの会でまず右にでるものはないですね。

  • 要領が悪いのかもしれませんけれど、自分が一番作業しやすい体制になるとどうしてもこうなっちゃうんですよ。商売柄、綺麗で高価な着物を大事に扱っているので、森に来るとその反動で気持ちよく汚しているのかもしれませんね。森の中でお茶会などもやらしてもらっていますが、こんな時はいわゆる藍染の作務衣でやります。この時は作務衣といえども結構汚れないようにします。

━━お茶は何流ですか? また、茶道具を揃えたり準備も大変でしょう。

  • 無手勝流ですよ。茶道具は或る程度持ってきますが、森の中でのお茶会ですから、それなりにある物を使うというのもまた、これ粋というものです。森には竹もあるし、野草もあって、それを竹の器に投げ入れれば絵になりますよ。それに風景も一服の絵になりますしね。それにお茶の心得のある女性会員が手伝ってくれます。(ちょっと顔を赤らめて…)京女のカミさんも森でのお茶会にはいつもきて手伝ってくれます。

━━無手勝流ならば、まさに自分の流派なんだから、いわば家元というところですね。さしずめ、ぼんぼり流家元ですね。宗匠なんていいんじゃないですか。

  • 今度からそうしょう! (…お得意のダジャレ)

━━(お茶会の様子は活動報告で…こちらをクリック)LinkIcon

━━しかし、お茶と森林整備のボランティアってなにか結びつかないですね。

  • いや、簡単にいえば多趣味なんですよ。でも上手く趣味同士が結びついています。

━━多趣味って、他にどんな?

  • 自転車ですよ。サイクリングですね。ママチャリじゃないですよ。本格的なサイクリング車で池袋から自転車で盆堀まできます。そして森林整備に参加します。そこで時には森でのお茶会。(嬉しそうに…)お茶会での亭主として「結構なお点前でした」なんて言われちゃったりして。幸い、盆堀には名水もあるので緑の中のお茶会って自分で言うのも変ですがなかなかのものですよね。それにお客人がいい。地下足袋をはいてノコギリを腰から下げていますが、なんか戦国時代の陣中での一服のお茶の提供を連想してしまいます。お茶は「わび、さび」の世界と言われていますが、わざわざそんなこと言う必要ありません。この会の平均的年齢からするとお客人の顔だけで十分「わび、さび」を感じられます。そんなお客人には、お菓子も奮発して虎屋の羊羹を出すようにしています。薄く切るとうるさいからなるべく厚く切ってね。茶道の心から言えば厚ければいいというものではないんですがね。顔が「わび、さび」の域に達していないお客人には適当にごまかしています、と言っても、いつものいなげやの大福ではねぇ~、宗匠として格好がつきまへん。(…ときどき京都弁)

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━━森の中でのお茶会。ご亭主としてはどう思っていいますか? 

  • お茶のときだけは「亭主」ですが、家の中ではとても「亭主関白」とは言えませんわ。お茶に関しては、動中の静ではないですが、作業して疲れたときの茶の一服。それも緑の中で。最高のものだと思ってもてなしています。疲れたんだろうなということでお茶を入れてあげる。この心遣いですね。(こういうのって自画自賛、我田引水っていうのかなとモソモソと自問自答…そして相手を持ち上げることも忘れずに)そしてそれに対する感謝の気持ち。それがわかるぼんぼり山の会の仲間って素晴らしいですよね。でも同じようなことはぼんぼりには沢山見られます。作業場所までコーヒーを出前してくれるマスター。コーヒーもお茶ですからやっぱりお茶人ですね。あのマスターは。気持ちは同じです。お昼の汁ものを用意してくれる料理長など、みんな同じことですね。もっとも料理長の場合はトン汁とか味噌汁だから汁人というのかな? なんだかあまり語呂がよくないですね。この時だけは(お茶会)私も間伐などの作業を忘れてお茶人になり切って皆を癒そうと言う気持ちでいます。ぼんぼり来て目立つのはこの時くらいですよ。

━━そんなことないですよ。まず自転車で来ること自体が目立ちますし、あの汚れ方もたいしたものです。ついでに言えば、着替えて自転車で帰るときの白い髪と白い足。目立ちますねぇ~。しかし、池袋から自転車で来るなんて、タフですね。見ているとそのあとぼんぼり山の会メンバーで一番休みなく作業しているT翁のもとでの作業。終わってまた、自転車で池袋まで自転車で帰る。脱帽ですね。作業が終わった後、秋川の居酒屋までマラソンで行く女性会員もすごいですがそれに匹敵しますね。

  • あのマラソン女性のFさんにはかないませんね。心臓の強さが違うんですよ。行けと言えば池袋まで走っちゃうかもしれませんよ。女性ってすごいですねぇ~。最近めっきり自信喪失ですよ。女性にはね。

━━ところで、そういう多趣味ならば、ぼんぼりでもっとやってみたいてことは何かありますか? また森林ボランティア活動を始めてずいぶんと長いですが、一番ボランティア活動にひかれるところってどんなところですか?

  • 森林整備ではありませんが、毎年恒例の川原でのバーベキューに参加したいのですが、この時はいつも京都の祇園祭りにあたってしまい参加できずに残念です。
  • それから、ぼんぼりの基地から自転車で一気に坂道を下ってみたいですね。でも基地まで自転車を引き上げるのはちょっと自信がないですね。下半身は自信があるんですが上半身はちょっとね。Yさんが基地まで上げてくれたら柞道を自転車で走りたいですね。きっとカメラのいいアングルになるかもしれません。自分でいうのもおかしいけれど白い髪とスラッとした白い足。いい写真がとれますぜ。(笑)
  • ボランティアの惹かれるところのとのことですが、ボランティアの基本ともいえますが、誰からの指図でもなく、進んで人のために動くということですね。何かが必要だったら他人に言う前に自分でやる。こういうことがこの会はみんな徹底していますね。決して人にこれをやれとか指図することがない。自分でやらないで人にやらせるようなことはボランティア活動の精神からは否定されます。それを充分わかって参加している。そういう気持ちを共有しながら活動していることが素晴らしいですね。皆のためにということはその裏返しで自分のためでもあるのですね。だから皆で楽しくしようという気持ちがより強いのだと思います。そんなぼんぼり山の会がこういう気持ちでいつまでも存続してもらいたいし、それゆえに楽しいので、自転車で脚力をつけて森で丸太を担いで上半身を鍛えて、いつまでも参加したいと思っています。

━━いつものダジャレの多いカトチャンに似合わず真面目なお話をありがとうございました。

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ぼんぼり山の会の最長老で顧問をして頂いている潮田さん。
現役時代、製紙会社に勤められていた関係で、パルプにする為の伐採に対する贖罪意識が森林ボランティアにかかわるきっかけだったと聞いている。平成10年、森林ボランティア団体(さがみ湖・森つくりの会)を立ち上げ。その後、その団体の大勢の仲間と新たに平成19年にぼんぼり山の会を立ち上げ、森林ボランティア歴は実に14年間に及び現在に至っている。80歳を迎えて、間伐などのきつい作業は若い人に任せて、基地周辺で体力に合わせた作業を楽しんでいる。今回、そんな潮田さんに後進の会員のために「元気の秘訣」を書いてもらった。(編集部)

私なりの健康法<潮田>

DSC_1827_034.JPG今回原稿を依頼され、さて困った…というのが正直なところ。

私が森林ボランティア活動を始めたのは平成10年68歳の時でした。以来いつしか13年もの月日が経ち、この6月には81歳の誕生日を迎えてしまいました。その間年々体力は低下して、昨今では皆さんの迷惑にならぬよう、一人楽しんでいる実情です。
そんな私ですが、時折他人様から『歳のわりに元気ですね』と言われると、その都度秘かに鼻をヒクヒクさせています。しかしよく考えればこれは大変幸せなことだし、いずれ皆さんも80台を迎えられるのだから多少は参考になるかなと考え、健康に関する体験や感想を幾つかお話ししてみることにしました。

ただこれまで私がやってきたことは、殆んどが自己流でありその効果についても自己満足ベースの話しですから、最近テレビCMで流行のサプリメントのような効果はありませんのでそのお積りで…(?)
尤も人間なんて生き物は、DNAの違いが示すとおりそれぞれ独自の心と身体を持った動物なのですから、ベストとか絶対とかの健康法なんてものはありえないし、結局は自分が納得したものが本人にとってのベストだと思うしか無いのではと思います。という屁理屈に従って私も他人の意見はよく聞きましたが、必ず自ら咀嚼し納得することにし、そうでないものは馬の耳に念仏を決め込んできたようです。従って皆さんもどうか気に入ったとこだけ試してみてください。ぼんぼりの活動と同じく一切自己責任でね…(笑)

では本題に移ります。
以前ある先輩が『長寿の秘訣は一に運動、二に睡眠、三に友人だ』と唱えるのを聞き、そんなものかなと思いましたが、高齢になるにつれ、健康第一は当然として、友達というのも結構老化防止には貴重な存在だと認めるようになりました。我々は皆色々な友達を持っています。そのなかで利害関係や気兼ね無しに、ただ四季折々の自然環境を満喫し、自分で選択した仕事を楽しみながらも、チョッピリ森林保護に貢献してるという自負心がもてるぼんぼりの活動というのはなかなか素敵だし、その仲間達はまさにお互いにとって貴重な友人たちではないでしょうか。

世の中には多くのボランティアグループがありますけど、これだけ愉快でしかも長続きしている仲間は珍しいのではないでしょうか。天の配剤かどうかは判りませんが、ぼんぼりにはそれぞれ多彩な特技をもつ善意のメンバーが、これまた絶妙な配合で散りばめられ、楽しいハーモニーを醸し出している気がします。
この幸せは誰がつくったものでもありませんが、メンバーの一人として私の元気の源になっている皆さんに感謝する次第です。

DSC_0114 a.jpg次に私が個人的にやっている健康法についてご紹介しましょう。
私は生来のスポーツ好きでしたが、学生時代は戦中・戦後の厳しい環境に災いされ、あまり楽しい憶い出はありません。それでも社会人になって数年間は色々なスポーツを楽しむ機会があったのですが、これも束の間、仕事が忙しくなるにつれ(多少は使い物になって来たせいかも?)オジャンになり、歳と共にせいぜい付き合いゴルフ程度で我慢させられておりました。そんな60歳の頃たまたま近くのテニススクールに参加したのが縁で、未だに週一回のスクールを楽しんでおります。
さてテニスを始めてみると、たちまち怪我に通じるヒヤリ・ハットを再三経験させられました。幸いに皆軽症で済みましたが、何とかしなければ…との恐怖感に襲われました。
そこで先ず考えたのがストレッチ。生来人一倍身体の硬い私にとって関節や筋肉の柔軟性を改善する事が老後の怪我防止にとって有効と思ったわけです。

そこで、自己流の柔軟体操を工夫し毎日実行することにしました。
先ず最優先課題を一つだけ選び、その改善目標を、やれそうなレベルに設定し具体的手法を自分で考えました。この手のノウハウものは山ほどありましたが絶対に丸呑みはダメ。自分の身体は、性格を含め自分だけしか判らないのですから、最適な方法も量も自己で考え決めることが大切。
そしてその際思い切った柔軟な発想や、遊び心を持つのが良いようです。例えば動物がやっている伸びの姿勢をヒントに色々なノビの姿勢を考えてみるとか、とにかく面白がって試してみて、失敗だったらやめ、成功だったら続けることが良いようです。そして無事目標をクリアーしたら直ぐ次のステップを設定して挑戦を繰り返すと言う手法でやってきました。

一応原則的には毎日起き抜けにやることにしていますが、体調不良とか気がのらぬとかでサボる事はOKとし、又内容も時間もその時次第で大幅に変更ということでやっています。ただ無理せず、諦めずがポイントだと思います。勿論自己流が災いして、これまでも多くの失敗を経験しましたし、これからも試行錯誤の繰り返しだとは思っています。でもその方が面白いし結果としてステップアップ手法と強制されぬ実行の繰り返しが私には適していたようです。当初はせいぜい現状維持が出来ればと思って始めたのですが、極めてゆっくりでしたが成果もあがり、老齢でも柔軟性のレベルアップ(=怪我の防止)は可能だと判って嬉しく驚いています。

もう一つテニスより高齢者向きと思って始めたのが水泳です。
丁度70歳でしたが、子供の頃海で泳いだ記憶があったので、なんとなく当然泳げるものと思ってスポーツジムに行きました。ところが最初のバタ足で、腰が沈んで一向に進まぬのにビックリ!ガックリ!! 隣でオバサマ達(?)がドンドン進むのに口惜しいやら恥ずかしいやら…。という思いをしたのを覚えています。

当初は色々な泳法を楽しむ積りだったのですが、諦めて最も楽なクロールに絞り込み一からやることにしました。まずレッスンを受けてみましたが量・質とも消化不良。結局自分で基本の浮き身姿勢から一歩々々自己流の目標を設定し、練習方法を決めては実行する繰り返しでやってきました。確かに水泳はテニスに比べ全身運動であり、プレー中の危険性も少ないので高齢者向きだと思います。その上一人で楽しめるのは嬉しい事です。でも私にとって水中運動は全く別世界であり、或るレベルに達するまではひどくシンドイ道程でした。漸く最近になって楽しさが判ってきたと同時に水泳の奥深さに好奇心をそそられはじめているところです。将来テニスが無理になった時、もう少し達者に泳げるように成っておこうと思っています。

さて私も年並みに不具合なところはありますが、今一番口惜しいのは左足股関節痛です。医者の見立てでは老化現象によるパッキング(?)の磨耗が原因で治療方法はないとのこと。症状はその都度違いますが、いずれも早めの休憩が有効のようなのです。しかしこれも他に緩和の積極的な改善方法はある筈と思い目下試行錯誤中です。

その他では、よく言われる食事と睡眠の大切さについて近頃になって改めて感じているところですが、こちらでの功労者は間違いなく奥方です。私は結婚以来50年余もの間、延べ十数回に上る引越しや、子育てから家事一切に至るまで、顧みて頭の下がるばかりなほど何もしなかったので、ひたすらワイフに感謝するばかりです。

以上面白くも無い内容になってしまいましたが勘弁してください。

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会のメンバー二名がそれぞれ独自のルートで東北被災地での災害ボランティアに参加しました。会の活動とは直接の関わりはありませんが、被災地で実際に感じたことの報告として紹介いたします。 (編集部)

災害ボランティア報告(1)
東北に行ってきました<後藤>

goto 1.jpg今回参加した“RQ市民災害救援センター”はアウトドアやエコ関連のチームが主体となって編成された団体で、本部を東京に、東北ベースキャンプを宮城県登米市において、主に気仙沼、南三陸町、石巻で活動しています。

参加条件は“自己完結できる人”と云うことだけで、その他特別な条件はありません。今は、地元の好意で小学校の体育館、被災したレストラン、それにお寺の本堂などを借り、また場所によってはテント村を作って、寝袋で床にザゴ寝しています。食事などは自分達で用意し、装備なども基本的には自分持ちでやっています。

地理的に関東からの人が多いのですが、全国各地から入れ代り立ち代り常時80~120人ぐらいが参加しています。若い人は仕事や学校があるので今の時期、活動日は平均3日・4日ぐらいでしょうか?時間があるおじさん達は体力次第・気力次第です。

活動内容は泥出し・片付け等の作業系が主ですが、他には支援物資のデリバリーや被災者のケアーも各種やっています。

故郷九州からも! 沖縄・熊本・大分・長崎・福岡から来た人とも一緒に作業しました。
遠く外国からも! イギリス・台湾・韓国からの人とも一緒にがんばりました。

いつもは陽気な若い人たちも、惨状を目にするとみんな無口になります。
幼い子には出来ればこの惨状は見せたくありません。
生まれたてのピュアな心に大きな傷を与えかねない、それはすざましい光景ですから。
とてもシャッターは押す気にはなれませんでした。(禁止している団体もあるそうです)

テレビの映像や新聞の写真で知っている“ごみ・瓦礫の山”。
他人から見れば“ごみ”でしょうが当事者にとってそれは『今まで生きてきた“あかし”』
亡くなった人のそれは『直前まで生きていた“あかし”』
人により思いはさまざまでしょう。片付け作業も、場所により物により、被災者の気持ちの整理がつくまでは少し時間をかけることも大事な思いやり…だと痛感しました。『自分が逆の立場だったら…』と考えればよく理解できます。ゾッとします。

復興の実動部隊は自衛隊が主力ですが、警察車両も消防車両も他県ナンバーで溢れています。企業も大型バス等で社員や関係者を送り込んでいます。われわれ一般市民も一人ひとりはケシ粒のように微力ですがそれでも全国から集まってきています。政治の混迷は別として、実動部隊が全国版で総力あげているその姿、とても尊く感じます。

気仙沼市街地で、溝掃除・泥出しをやったのですが週末を利用して隣の秋田県から若い人が4~5台の大型バスで駆けつけてくれ、臭気の強くなった溝掃除を体中泥だらけになりながら頑張ってくれました。この作業本当に臭かった! これには被災者も、そして我々おじさん達も元気を貰いました。

町がほぼ全滅した南三陸町は、水道も電気も復旧してはいませんが6月10日に幼稚園を再開すると云うことで、いろんな雑用の手伝いをしました。

震災時、63人の園児たちはお昼寝の時間だったそうです。半数は母親が連れ帰り、半数は先生たちと裏山に逃げたそうです。「帰った母子の安否が確認できるまでの3日間は心臓が破裂しそうでした。みんな無事でよかった。子供はみんなの宝ですから」声が詰る園長の話は印象的でした。床上1mまで津波が来て物品はほとんどダメ。未だに幼稚園のすぐ下は何台もの車が逆立ちしている瓦礫の山のまま。小さな幼い心に負ったダメージがあまりにも大きく、その為に1日でも早く再開したかったそうです。子供たちの声や笑顔は復興の光!ほんの少しだけ役に立ちました。

鎮魂と海の復興を願って、岩手・一関の山に1,000本の広葉樹を植えました。

【豊かな元気な森があるところにはいい川が! いい川のあるところには豊かな海が!】
気仙沼の漁師さん達が上流の山に植林を始めて23年、牡蠣漁師で研究者でもある畠山重篤さんの名著「森は海の恋人」で知名度も高く、この活動は全国的なものになっています。今年の植樹祭には、気仙沼市長・一関市長・応援団長の田中京大名誉教授、それに北海道から沖縄までの賛同者1000人がこの山に集まりました。

主催者の挨拶 「・・・・あらためて海の怖さを、大自然の恐ろしさを知らされました。 わたしも母を失いました、子供さんを亡くされた方もいます。多くの人が家や船を失いました。しかしわたし達は海を怨んではおりません。ここには海を怨んでいる人間は一人もおりません・・・ただただ 海の復興を願っています・・・・」
飾らない言葉で、考え考え言葉を選びながら、とつとつと丁寧に話されました。
東北の人たちの芯の強さと、人としての品のよさにうたれ涙がこぼれました。
気仙沼湾の牡蠣養殖用の筏は全て流されました。

我々は 筏用丸太調達の手伝いをしました。
海近くの杉林から末口25~30cm、長さ14~16mの材を間伐して長い材のまま人海戦術で浜辺まで運び出し、それを3本毎に組んで船で海に引っ張り出すという仕事です。杉林の間伐は東京の森林ボランテア仲間が数日前からチェーンソー持参で担当しました。
運び出しと送り出しは20人の我々のチームが担当し、引っ張る船は津波で生き残った貴重な船、これは漁師さんが担当しました。
3日間連続で約150本、全体の10%にも届きません、ま~だまだです。
それでも「全部失ってなんもやる気が出なかった、でもな、お陰で少しづつ気持ちが上向いてきたよ。来年か再来年か牡蠣食い放題をやろう、来てくれよ」と漁師さん。我々にとっては何よりの言葉でした。

石巻・牡鹿半島根元の浪板地区で。
この地区は全滅状態でわずか数件半壊の家が残っただけの小さな集落です。ここにはリアス式海岸には珍しく砂浜があり漂着物が絶えません。水も電気もありません。

我々チーム15人と栃木チーム60人、それに群馬の建設会社の人たちが4tダンプ、小型ユンボ持ち込みで参加してくれました。海岸・川底・家の中・その周囲と、それぞれが手分けして片付け作業をやりました。

地区共同体でいかに山を守り、川を大切にし、海を大事にしてきたか、「川には鮎も遡上し、上流にはサンショウウオが、下流にはうなぎもいる」地区長がこの地域のことや自分たちの暮らしをポツリポツリと話してくれました。

「ここは昔から米さえ買えば充分暮らしていけた、いいとこだよ。3ヶ月経ってやっと何かをやろうという気になってきた、よう来てくれた」

かろうじて残った縁側で「お茶飲んでけよ」「菓子食ってけよ」と近所の人。 
つらいだろうに、憤っている人を見たことがない。穏やかに励まし、耐えている。なんでこんなに優しくなれるのか。 

次回は6月末ごろから気仙沼の拠点にしぼって行こうかと思っております。



災害ボランティア報告(2)
石巻ボランティア報告<佐伯>

saeki 1.jpg6月の7日(火)~9日(木)に宮城県石巻の災害ボランティアに行ってきました。
私が他に所属しているNPO団体の中に災害緊急援助NGOの職員がいて、事前に状況を聞き、仲間内でよし行こう!ということになりました。

3月11日以降多数のボランティアが行ったのはニュースで知られている通りですが、 実際はルートもままならず、人が余る程だったそうです。被災者の方々は、まずボランティアという他人に物事を頼むということに申し訳ない気持ちがあって抵抗があったそうです。もう一つは、前向きな気持ちになれてない、ということ。

それから、家族を亡くした被災者の方々は、四十九日が終わって、ようやくうちも片づけようか、という気になってきているようです。ボランティアの活動も口コミに広がり、頼むことに抵抗がなくってきた頃、GWが開け、ボランティアの数が激変し、今こそボランティアが必要だと聞きました。 特に平日。

私の活動場所は「渡波(わたのは)」地区でした。ニュースでも取り上げられてますが、特にこの地域は地盤沈下が50cm以上と言われ、海からの水がなかなか引かなく後半まで状況がつかめない地域でした。

宿泊は隣の地区で津波の影響を受けなかった土地の古民家をNGOが借りていて、その日にくるボランティアはみな雑魚寝でした。風呂はなし、電気もワットが少なく、皆が充電しているとご飯が炊けないという環境でした。私達を入れて17人はいました。海外から個人でくるボランティアもいました。脱帽です。

さて、渡波地区ですが、宿泊所から被災地へ向かう道路は、渋滞です。特に活動が始まる時間帯と終わって帰る時間帯。渡波地区だけでなく、被災地全てがその様だと思います。ガレキを積むトラック、警察車両、自衛隊車両、そしてボランティアのワゴン、地元住民。

見える住宅全部やられています.jpg見える住宅全部やられています海に面した工場(車中より).jpg海に面した工場(車中より)道路は確保できた、という感じ.jpg道路は確保できた、という感じ通りに道には門脇小学校.jpg通りに道には門脇小学校

海に近付くにつれてどんどん視界が開けてきます。パッと見は一軒の住宅地に見えるようであっても、良く見ると1階部分は何もなくなっています。
全てのものを流して行っています。廃墟の町です。
さらに海へ近付くと、家ごとなくなっている地域に入ります。
360度見渡せます。
もちろん人が住んでませんから、信号機は作動していません。
警察官が手旗信号で交通整理をしています。
何をするにも、何もないんです。
何にもない、ってこういうことか、と無力感になりました。

いたるところにガレキの山があり(7~8m)木も車も看板もいっしょくたに積み上げられています。しかし、震災から3か月は経過している頃ですから、今走っている道路が通れるようになっているのも、ガレキが積み上げられているのも、これでも少しづつ進んでいるのか、と無理にでも思うしかありません。しかも、私がいる場所は被災地図上で言えば「点」でしかありません。このだだっぴろくなった土地が果てしなくあると思うと、ちょっと気が遠くなってきました。

私達は海に近い場所の唯一残ったお寺のボランティアに派遣されました。
6月18日に合同法要があると貼り紙がしてあります。NGOスタッフから、被災者には、当日のことや、地震、津波といった話はしないように言われてましたので、詳しいことはわかりませんが、他の寺はみな流されたしまったようで、そのお寺で宗派関係なく合同法要するようです。

中には地区別に棚が出来ており、骨壷と写真が並べておいてありました。
小さな女の子の写真もありました。
法要の申し込みに地域住民とお坊さんが入れ替わり立ち替わり来ていました。

男性は、寺の庭にある大きな池に溜まったヘドロの書き出しをしました。
直径5mくらいはあったと思いますが、大手企業団体も加わり、男性20名位でその直径5mの池に溜まったヘドロを2日間かけてやっとかきだしました。大変な作業だったと思います。重さと匂い。元々空気がくさやの干物のような匂いです。雨が降るとこの匂いが特に強くなるそうです。

女性はお寺の清掃と、お寺の家族の濡れた写真や経典の乾燥作業。
寺の中は住職さん達が休日に泥を出したそうで、床が見えていました。一枚一枚剥いで、並べて行きます。アルバムにへばりついた泥の塊はブラシで取り除いて行きます。墓の区画契約書や遺言書もありました。住職さんの診察券や郵便通帳やハンコウが見つかりました。

寺の1階は天井から50cm位(普通の一軒家より天井は高いです)の所まで海水が入ってきたのがくっきりわかります。
壁は流されて、骨組みと乾いた砂が固まって骨組みにくっついています。
壁はビニールシートで覆っています。
モップで廊下を拭いても拭いても、乾けば砂でざらつき、終わりが見えませんでした。

住職さんのお嫁さんの話によれば、今家族は全員バラバラで生活しているそうです。寺の家族の家も流されたそうです。震災後、彼女は趣味でダイバーをやっているので、ウエットスーツを来てお寺に来て、 腰上まで浸かったそうです。
寺も家もやられているのに、この被災地に金庫泥棒もやってきて、なんでこんなにいじめるのー、もうたくさんっと笑い飛ばして言ってました。
それを聞いた我々は、「そういうやつは絶対バチが当たりますよ!」と強く笑って答えたのでした。

こちらはまだ手がつけられません.jpgこちらはまだ手がつけられません見渡す限り・・・.jpg見渡す限り・・・巨大な缶詰(車中より).jpg巨大な缶詰(車中より)お寺の前には牛角.jpgお寺の前には牛角

作業を終え、別世界となった土地を後にして帰りました。
車中からどんどん日常の風景が広がって行き、次の日は普通に仕事をしている自分が不思議なような申し訳ないような気持ちでした。

この震災でどう協力するか、様々なやり方がありますが、被災地は本当に人と、重機と、モノがないと実感しました。

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会員インタビュー第2弾
吉祥寺のオジサン大いに語る


━━なぜ「吉祥寺のオジサン」なんでしょう?

  • 会の活動では主に道づくりなどの作業をやっていました。道づくりは共同作業なので、冗談に○○組と言っていました。その冗談が高じて吉祥寺からの出稼ぎのオジサンということになったようです。

━━では、今でもそう言われているのですか?

  • 最近は、コーヒーを沸かすのが、なんとなく私の役割になってしまったようでマスターなんて呼ばれ始めています。私自身もこのほうが気に入っています。
  • ちょっと格好いいイメージですもんね。みんなが飲みたいだろうなと思ってコーヒーを作業場所まで届けるので大変喜ばれています。飲む方からみれば、出稼ぎのオジサンが持ってきてくれたというより、マスターが持ってきてくれたと思う方が余計に美味しく感じんでしょうね。マスター、マスターといえばきっと嬉しくなって、もっと持ってきてくれるという下心があるかもしれませんね。

━━そのほか、活動日にはどんなことをしているのですか?

  • お昼にみんなが食べた後の食器や鍋を洗ったり、物置の道具整理、それが終わると土木班に戻ってみんなと一緒に共同作業しています。終わると終礼の司会です。そうして最後に基地の倉庫の戸締り、焚き火の後始末の点検などです。
  • そうそう、忘れていました。昼の食材の買い物の手伝いです。これはなるべく行くようにしています。行かないと誰も大好物の大福を買ってこないので、そーっとカートに入れるようにしています。なんといっても料理長に気づかないようにカートに忍びこませるスリルが楽しいですね。山に上がってから「誰だ! こんなもの買ったのは!」という声を聞くのが実に楽しいですね。

━━結構、ヤバイ側面もお持ちですね。

  • そうですか。昼食は大福だけでもいいと思っているくらいです。でも、ひそかに買わせた責任を追及されますから罪滅ぼしのためみんなになるべく食べることを強要しています。

━━でも、お昼は何を食べているのですか?

  • もっぱらラーメンですね。料理長監修(ここが大事)のトン汁をかけて食べる。これが実にうまい。私は食い倒れの大阪出身ですから味にはうるさいのです。以前に私の造った「ちゃんこ鍋」など大好評でした。もっとも一部の味音痴の人は「ちゃんと鍋」などといっていましたがね。あなたにも一度ごちそうしますよ。料理長の休みの日にね。

━━ありがとうございます。楽しみにしていますが、くれぐれも鍋の具に大福は入れないようにお願いします。 ところで結構いろいろな役割を担当されているようですが、何か印象のあることをお話いただけませんか?

  • 前にこんなことがありました。道づくりをやっていたのですがトイレに行きたくなって作業から離れました。そのまま基地の作業が必要になったのでそちらの仕事をして道づくりには戻らなかったのですが、終礼で各班の活動報告を求めるのは私の役目なので、「では、土木班、今日の道づくりはどうですか?」と報告を求めたらなんと言われたと思います?

━━????

  • 「予定では○○メートルの道づくりだったのですが、一人脱走したため○○メートルで終わってしまいました」と私の顔を見ながらニャニャと。それだけならいいのですが更にホームページの定例活動報告で「出稼ぎのオジサンが途中脱走したので予定通りいかなかった。こともあろうにその報告を受ける終礼の司会者はあのオジサンだった」などと書かれてしまいました。もちろん冗談での会話や文章ですがね。ついでに言えば土木班はいつも冗談が多く楽しいですね。けっしてタコ部屋のようなところではありません。

━━いろいろ伺っているとボランティアの鏡のようですね。ボランティア活動はここ以外に、なんかやられているのですか?

  • 沢山やっていますよ。地元の吉祥寺で「お父さんお帰りなさいプロジェクト」とか介護ボランティア、そして最近ではマンションの理事長まで任命されてしまいました。

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━━「お父さん何とか・・プロジェクト」ってどんなものなんですか?

  • 定年退職して暇になった人が、家庭にとじこもるのではなく、いろいろな社会活動に参加してもらって、その力を再び社会で生かしてもらおうというプロジェクトです。そのためにパーティなどを開いて、いろいろな活動を紹介しています。私は、このパーティで「ぼんぼり山の会」の紹介をしています。「森にきませんか?」とかね。

━━そうすると、定例活動日以外でもぼんぼり山の活動をしているわけですね。
勧誘の効果はありましたか?

  • ええ。いままで3人ほど入会していますし、会員にはなっていませんが数人の人が活動日に来ています。

━━勧誘ではどんなことをいうのですか?

  • 簡単な会の紹介、そして「いい空気を吸いながらいい汗をかきませんか」とかね。最後の殺し文句は「お父さん、アフターファイブのない人生なんて想像できますか?」と、たたみかけると大抵の人が興味を持ってくれます。ただ体力的に自信が持てない人が多いようです。男の人は定年までに疲れちゃっているようですね。むしろ女性の方がますます元気なようです。私、こんど「お母さん、行ってらっしゃいプロジェクト」を始めようかと思っています。自分でもグッドアイデアだと思います。

━━なかなかの企画マンですね。聞くところによると会の事務局もやっているとか。まさにボランティア人生ですね。奥様は何かおっしゃっていますか。

  • ボランティア精神が身に付きすぎて、家内にもボランティア精神で接していますからきっと喜んでいると思いますよ。私に接する態度をみれば想像できます。でもあまり家内にボランティア精神で接すると家内が「私、森に行くのであとはお願いね」と言われかねません。そのあたりの調整が実に難しいんですよ。ボランティア精神を過度に出して「うっとうしいから、森にでも行ってください」と言わせるが一番いいんですよ。

━━やはり、人生経験が長いとお話に味があり人生の機微を感じさせられますね。いつも、今49歳だと言われている方とは思えませんね。

  • 家で「しじゅう臭いと」言われているので、いつのまにか私ってひょっとして「49歳?」と思うようになってしまいました。家内がそう言うのだから間違いないだろうと思うようになりました。

━━ありがとうございました。5年後の殿堂入りの会で再会できることを楽しみにしています。

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料理長単独独占インタビュー

ぼんぼり山の会編集部は、私たちにいつも美味しい汁ものを作ってくれる本会の料理長を務めるKK氏の単独インタビューに成功した!
同じ仲間なのになぜ「インタビューに成功」と言わなければならないのか、大きな訳がある。それは決して目立ちたがらずいつも裏方に徹し、奥ゆかしい人柄なので、今回の申し入れも再三にわたって断られた経緯があったからだ。

━━こういったボランティアに参加して何年になりますか ?

  • 以前に参加していた団体から通算すると6年くらいになります。

━━その間ずっと料理一筋ですか ?

  • ええ、その通りです。

━━森林整備、例えば間伐やボサ刈りなどの作業はしないのですか ?

  • ほんのたまに参加しますが、お腹をすかして戻ってくる人に美味しいものを提供したいという気持ちが強いのでやはり料理専門ということになってしまいます。

━━料理を作るにあたってどんなことを注意していますか ?

  • まずは作業が力仕事なので塩加減に気をつけています。人によって塩味が濃い目を好む人もいれば、油こい物を好む人もいるのでこの辺の調整が実に難しいですね。

━━そのあたりの味付けの調整はどうするのですか ?

  • すべて自分の舌できめます。

━━それではちっとも難しいことないじゃないですか?

  • そのことについて文句を言わせないことが難しいんです。いわば私はボランティアの人達の為のボランティアですからね。だから皆に「俺は皆の為のボランティアで、人の善意の行動に文句言うな」と言えば皆すぐわかってくれます。

━━他にどんな作業をしているのですか ?

  • 山に来る前にスーパーで食材の買い物をしたり、火をおこしたり、暇をみては薪を割ったりと結構忙しいんですよ。

━━買い物は大変でしょう?

  • それは大変ですよ。なにしろ20人分前後の食材を購入するんですから。いろいろうるさい人が付いてきて「もっと肉を買え」とか、いつの間にかそ~っと大福なんかをカートにいれちゃったりと、困ったもんですね。

━━毎回献立を考えるのも大変でしょう?

  • ええ、まぁ…だいたいトン汁がほとんどですからそうでもないですよ。

━━レパートリーが多いと聞いていたのですが?

  • うーん。トン汁と…あと得意なのはクリームシチューかな…

━━では、トン汁に特化してその道を究めようとしているということですか?クリームシチューは市販のルーを入れれば簡単にできますよね?

  • トン汁については名人の域に達しつつあると自負しています。

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━━何か失敗談なんてありますか?

  • うーん。トン汁にダシと味噌を入れ忘れたくらいかな。直前に気が付きましたがね。あとは、そうですね…トン汁を「ごった煮」と間違えられたことくらいです。でもこれは皆さんがそう思っただけで私はトン汁のつもりだったんですがね。でも間違えられるというのはまだ私が名人の域に達していないということですね。それから豚肉を入れないで卵でごまかそうとしたのですがバレてしまいました。(当たり前だ!の影の声…)なかなかその道で極めるというのは難しいものですね。

━━ボランティア活動をしていて身近な人はどんな感想をもっているのでしょうか?

  • 会社に行って皆に森林ボランティア活動をしていると言うとびっくりされ、そのあと尊敬のまなざしでみられます。皆、ノコギリやチェンソーで木を切り倒していると思っているので、そういうと結構、女性にも、もてます。だから口が裂けても森に行って「大根やニンジンを切っている」なんて言えやしません。

━━「料理長」って呼ばれる気持ちはどうですか?

  • ちょっと恥ずかしいですね。むしろ皆が作業に出た後、基地を守りながら料理の支度や何かをしているので、できれば「ぼんぼりのお母さん」とでも言ってもらえると嬉しいですね。その手の人は今芸能界でも、モテはやされていますからね。

━━じゃあ、楽しくてしょうがないでしょう?

  • そうでもないんですよ。このごろ心配なことがひとつありましてね。

━━聞かせてくれませんか?

  • 実は、活動が終わった後、いつも皆で秋川の居酒屋に行って飲むのですが、そこのオヤジが今月で店を閉じて暇になるらしいんです。それでこの会に入会するらしいのですが、そうすると私どうなっちゃうんでしょう。おやじは本職の料理人。私、リストラかなと考えると夜も眠れなくなっちゃうんです。不安で不安で…

━━大丈夫ですよ。みんな付き合いが長いので味はともかくやっぱりトン汁は料理長に限る!と言ってくれますよ。

  • なんだか、その言葉を聞いて安心しました。ちょっと「味はともかくとして…」というところに引っかかりますがね。

━━まあ、トン汁を飲んで(食べて?)くれて「なんぼ?」の世界ですから。その点、料理長の作るトン汁はいつも完食ですからね。ちょっと強制的な分配もたまにはありますがこの会の人は皆さん優しい人ばかりですし… 今日はありがとうございました。

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